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真田ゆかりの地をめぐる歴史旅~群馬・長野 真田道~ 最終回 長野県上田市

群馬県沼田市から長野県上田市までの「真田道」を巡る歴史旅。最後は、真田ファンの聖地である上田をご紹介いたします。
上田には、真田の居城「上田城」や、真田家の菩提寺「長谷寺」、真田家の崇敬篤い「山家神社」、上田城以前の居城である「真田氏本城」、幸隆長男・信綱が眠る「信綱寺」、幸隆が調略した「砥石城」などなど、たくさんの真田関連史跡があります!

小日向えり

PROFILE 小日向えり(こひなたえり)

1988年生まれ。奈良県出身。横浜国立大学教育人間科学部卒業。歴ドル(歴史アイドル)の草分け的存在。信州上田観光大使の他、関ヶ原観光大使や会津親善大使も務めさまざまなメディアやイベントを通じて、女性ならではの視点で歴史の奥深さ、おもしろさを世に広めている。初詣は毎年、真田信繁戦死の地である安居神社に参っている。近著に「いざ、真田の聖地へ」(主婦と生活社)がある。ITmediaでも連載中。

いざ、真田の聖地へ

これまで、山の城「岩櫃城」川の城「名胡桃城」、天の城「沼田城」をご紹介してきましたが、上田のお城と言えばやっぱり「上田城」。真田信繁の父・昌幸が一世一代の大仕事として、心血を注ぎ築いた居城です。
お城好きが選ぶランキングで堂々一位に輝いた実績もあります。建造物としての見応えは国宝級のお城に見劣りするものの、「あの徳川軍を2度蹴散らした上田合戦の地」という上田城のバックグラウンドにロマンを感じる人が多いのでしょう。もちろん、私にとっても上田城は好きなお城ランキング1位です! そんな上田城は「ロマンの城」と名付けましょうか。
最終回は真田昌幸知謀のシンボル、ロマンの城・上田城と、幸隆夫妻と昌幸が眠る真田家菩提寺の長谷寺をご紹介します。

上田城築城…スポンサーは徳川家康!?

上田城

第一次上田合戦、関ケ原の戦いにおける第二次上田合戦と、2度にわたって徳川軍を撃破した上田城。
実はもともとは徳川家康がスポンサーとなって建てられたお城ってご存知ですか? あの家康が恐れた真田昌幸。その築城方法も創意工夫が凝らされています。

表裏卑怯の者・昌幸の真骨頂

昌幸が上田城築城に着手したのは天正11(1583)年、そのころ、昌幸は徳川家康に従属していました。 上杉謙信と対立していた家康は、対上杉の最前線である上田の地で、上杉抑えの要のために、真田昌幸に築城を命じます。それが上田城。徳川の資金で建てられたのです。
その後、徳川は甲斐国をめぐって北条と対立します。和睦の条件として、甲斐と信濃は徳川の領地に、上野は北条の領地に、ということになりました。
でも、ちょっと待って! 上野には真田の領地も含まれています! 勝手に北条にあげられたら真田は困ります。
そこで家康さんからの提案が「真田くん、上野の沼田領を北条に譲ってくれないかい? その代わり上田城をあげるから」ということでした。
上田城をありがたくちょうだいした昌幸は…なんと約束の領地を引き渡さず、そのまま上杉に寝返ります!
その後、家康にもらった上田城で、徳川軍を撃破するのです。
家康は自らが支援してつくらせたお城で、コテンパンにやられてしまったのですから、悔しくてしかたなかったでしょう。

徹底的に破壊された上田城

徳川はそんな上田城がよっぽど憎たらしかったんでしょうね。関ケ原の戦い後、長男の信幸が上田城主となりますが、お城は徹底的に破壊されてしまいます…。建物を壊すだけでなく、石垣は崩され堀も埋められたそうです。そのため、昌幸時代の石垣や建物は残っておらず、縄張りもはっきりとはわかっていません。残念すぎます。
1622年になって、信之が松代に移封になると、小諸から仙石忠政(せんごくただまさ)がやってきて上田城の修復をします。堀をもう一度掘りなおし、石垣を積み直します。天守はつくりませんでしたが、7つの櫓と櫓門をつくりました。今に残る櫓や石垣は、真田氏時代のものではなく、仙石氏もしくは松平氏時代のものです。もともと自然を利用したお城だったので、縄張りもそう大きくは変わっていないんじゃないかなと思います。

城門は上田城の顔、東虎口櫓門

上田駅から徒歩10分、上田城にはいると、まず上田城の「顔」ともいえる、城門が現れます。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉が美しく、記念写真を撮るならこの場所が1番です。

上田城城門 東虎口櫓門

城内で1番大きな石垣、真田石

真田石

門の右側には城内で1番大きな石垣があり、「真田石」と呼ばれています。
お城の石垣には「鏡石」と呼ばれる巨大な石垣が目立つところに配置されていることがあります。築城者の遊び心や、「大きな石垣、すごいだろ!」という見栄のようなものですね。
真田石、横から見てみると…思ったよりも全然薄っぺらい石! 初めて見た時は写真ではわからなかった薄さに思わず笑ってしまいました。あっ! いけない。こういった巨石を見たら褒めるのが武将の礼儀です。初めて見たときは、「立派な石垣ですな」と褒めてくださいね。
真田石は、きっと、昌幸時代から守り石としてお城を見守ってきたことでしょう。

城の中にある真田神社

城門をくぐると、目の前に「真田神社」があります。

真田神社1 真田神社2

もとは松平氏を祀ってあった松平神社だったのですが、太平洋戦争後に歴代城主である真田氏と仙石氏も合祀されて上田神社となり、昭和38年に「真田神社」と改称されました。真田の知謀にちなんで、学業成就にご利益があると人気です!
小日向のマイルールとして、上田にきたらまず「真田神社」にご挨拶にいくこと。そのとき家紋である「六文銭」を意識して5円玉6枚をお賽銭にしています。

抜け穴!?真田井戸

真田井戸

神社の左奥には、「真田井戸」があります。
この真田井戸は抜け穴になっていて、太郎山麓の砦につながっているという伝説があります。 戦いのときに兵糧を運んだり、井戸から城外に出て奇襲をしたとか。
真田といえば「抜け穴」伝説! 大阪の史跡にも、和歌山の史跡にも、抜け穴伝説はあり、若干の胡散臭さは漂いますが、とにかく真田といえば「抜け穴」なので、真田井戸も是非抑えておきたいです。

昌幸のこだわり、本丸土塁の隅おとし

本丸土塁の隅おとし

さて、神社にお参りがおわったら、水堀を見に行きましょう。
私のお気に入りポイント、「本丸土塁の隅おとし」が見られます。北東(丑寅)の方角は鬼門だからということで、土塁の角を削って落としているのです。
鬼門を気にして、縁起担ぎをしているのが、なんとも昌幸さんらしい。昌幸のこだわりの築城の名残が見られて、嬉しくなりますね。
隅落としの方角の先には、真田家が崇敬する「山家(やまが)神社」があります。Wの厄除けで安心です!

尼ヶ淵から臨む、唯一現存の西櫓

西櫓

上田城で1番のお気に入りビューポイントが、尼ヶ淵(あまがふち)から臨む西櫓です。
上田城に建てられた7基の櫓のうち3つの櫓が現在残っています。その中でも西櫓は、仙石忠政がつくったままの姿で残っている上田城唯一現存する建造物です。これは貴重!
上田城はもともと「尼ヶ淵城」という名前でしたが、名前の由来となったのがこの西櫓の建つ場所です。千曲川の分流・尼ヶ淵が、段丘をそぎ落として切り立った崖となりました。西櫓から駐車場側まで階段で下りて、尼ヶ淵側から臨む西櫓は、往時もかくあらんという景色で感動的です。みなさんも是非、上田城におでかけの際は、尼ヶ淵からの西櫓を眺めてみてください。

幸隆さん夫妻、昌幸さんにお墓参り

上田城から北東へ、車で国道144号線を登っていくと、真田発祥の地のレリーフが現れ、真田の郷に入ります。

真田の郷

真田町にある「長谷寺」も、上田城とともに何度も訪れているおすすめのスポットです。
春はお寺のシンボルであるアーチの石門を覆い被さるように見事なシダレ桜が咲き乱れ、上田の春の風物詩となっています。

長谷寺 石門

長谷寺は真田家の菩提寺で、真田幸隆夫妻と、昌幸のお墓があります。
杉林に囲まれたお墓は、静寂として、標高が高く影にあるからか温度が少し低く神聖な空気が漂っています。いつ行っても、背筋が伸びる気分になります。

長谷寺

信長の死により、旧武田領は無主となり、草狩り場となりました。真田の小さな土地は、北に上杉、南に徳川、東に北条…と大勢力に囲まれてしまいました。そんな状況で土地を守り切るのは並大抵のことではありません。
上田の領主がもし真田家じゃなく、他の武将なら…とっくに周辺大名に飲み込まれていたことでしょう。
「小県」という名前のとおり、小さな土地。だけど真田家にとって決して譲れない大切な土地。粉骨砕身、守り抜いたこの場所で永眠することができて、幸隆公も昌幸公も誇らしく喜んでいることでしょう。

~完~

編集:トランス・タイム 細内律子

歴ドル 小日向えりの真田ゆかりの地をめぐる歴史旅
真田道 ~長野県上田市から群馬県沼田市~

第1回 群馬県東吾妻町 >>
第2回 群馬県沼田市・みなかみ町 >>

最終回 長野県上田市

 
本ページ内掲載の内容は2016年1月現在のものです。

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