loading...
  • トップ
  • 特集・キャンペーン
  • 歴ドル 小日向えりの真田ゆかりの地をめぐる歴史旅 真田道 ~長野県上田市から群馬県沼田市~ 第2回 群馬県沼田市・みなかみ町
真田ゆかりの地をめぐる歴史旅~群馬・長野 真田道~ 2回目 群馬県沼田市・みなかみ町

NHK大河ドラマ「真田丸」。その物語の導入部分の歴史を、真田ゆかりの道に沿って歴ドル(歴史アイドル)で、信州上田観光大使でもある小日向えりさんに3回に分けて触れていただいています。今回はその2回目。群馬県のみなかみ町にある「名胡桃城」と沼田市にある「沼田城」についてのお話です。

小日向えり

PROFILE 小日向えり(こひなたえり)

1988年生まれ。奈良県出身。横浜国立大学教育人間科学部卒業。歴ドル(歴史アイドル)の草分け的存在。信州上田観光大使の他、関ヶ原観光大使や会津親善大使も務めさまざまなメディアやイベントを通じて、女性ならではの視点で歴史の奥深さ、おもしろさを世に広めている。初詣は毎年、真田信繁戦死の地である安居神社に参っている。近著に「いざ、真田の聖地へ」(主婦と生活社)がある。ITmediaでも連載中。

いざ、真田の聖地へ

群馬県沼田市から長野県上田市までの「真田道」を巡る歴史旅。
第1回では群馬県東吾妻町にある岩櫃城をご案内しました。
上州(群馬県)の代表的な真田のお城は、「岩櫃城」「名胡桃城」「沼田城」の3城です。
岩櫃城が「山の城」だとすると、天然の要害に利根川をもつ名胡桃城は「川の城」、関東では江戸城以外に唯一の天守閣を持つお城だった沼田城は「天の城」でしょうか。
今回は名胡桃城と沼田城を巡る旅をご案内。2つのお城はすぐ近くにあるので、1日で周ることができますよ。
まずは真田昌幸公が築いた名城、名胡桃城へ。

名胡桃城

名胡桃城 城址

車では、関越自動車道「月夜野インター」を降りて、国道17号沿い、橋を渡ってすぐ右側にあります。
名胡桃城は元々、名胡桃館という御殿だったのですが1579年(天正7年)に真田昌幸が大きく手を加え、名胡桃城を築きました。
小さい山城ながらも、歴史を変えたスゴイお城なんです!

秀吉の小田原攻めのきっかけをつくった

というのも…
豊臣秀吉は1590年(天正18年)、「小田原攻め」で北条氏を滅ぼしたことで天下統一を果たしました。その「小田原攻め」のキッカケを作ったのが、名胡桃城なんです。
真田氏と北条氏の間で長い間、沼田の領地をめぐってモメていました。沼田は越後から三国峠を越えて下り、日光方面へ通じる交通の要所。真田家にとっても沼田は是非ともおさえておきたい土地です。
昌幸は「名胡桃には先祖のお墓があるから名胡桃城だけは譲れない!」とハッタリをかますほど。それだけ手放したくなかったんですね。

秀吉の裁断は「沼田城を含む上州の3分の2を北条くんに、吾妻郡と名胡桃城は真田くんに」ということで一件落着、したはずでしたが。
そのたった半年後、北条氏の沼田城代・猪俣邦憲が、名胡桃城を攻撃し、落とされてしまいます。猪俣は「手柄を取ったどー!」と思いきや…この行動に秀吉がぶち切れ!
秀吉が出した「惣無事令」という大名同士の私闘を禁じる法令に違反するからです。秀吉は、目の上のたんこぶのような存在だった北条を征伐する良い大義名分を得たとばかりに、北条征伐を開始。いわゆる「小田原攻め」です。北条家は滅亡。秀吉は遅参した伊達政宗を攻めて陸奥の始末もし、これにて天下統一を成し遂げました。
真田昌幸は、秀吉の直臣となり、信濃小県・上州沼田領の所領を安堵され、名実ともに独立した大名としての地位が確立されました。

信玄公亡き後、昌幸は独立した大名になることを目指していたでしょうから、昌幸の念願が叶ったのです。武田家が滅亡し、織田の家臣になったとたん本能寺の変が起こるという…相当ツイてなかった昌幸公。そんな不運にもめげず「真田」のお家を守るため、「表裏比興の者」と言われながらも北条、徳川、上杉という大勢力のなかを見事泳ぎ切りました!

そんな背景を知って名胡桃城を歩くと景色も違って見えてきます。

遺構がしっかり残っています

名胡桃城 遺構1

名胡桃城は、突き出した舌のような形をしています。真下に利根川が流れ、両側が切り立った天然の要害です。馬出郭・三郭・二郭・本郭・ささ郭・物見郭と郭がまっすぐに並ぶ連郭式の山城で、空堀や郭の形がしっかり残っていて大変見応えがあります。
標高はおよそ430m。南東には川が流れ、いい景色です。この日は天気がよく、谷川岳も望めました。

名胡桃城 遺構2

石碑「名胡桃城址之碑」の揮毫は徳富蘇峰

石碑「名胡桃城址之碑」の力強い筆は、明治のジャーナリスト徳富蘇峰の揮毫(きごう)。徳富蘇峰は新島襄の同志社の教え子であり、襄の妻の新島八重に対して「鵺(ぬえ)のようだ」と言ったというエピソードがある人です。
揮毫の大きさが名胡桃城の歴史的意義の大きさを語っているため、石碑を小さくすることは許されなかったそうです。筆が収まる大きさの石を探して、63人の地元の人が懸命に隣の山から石を運んで大変だったとか。石碑にも歴史あり。石碑を眺めながらボランティアガイドさんにそんな裏話を聞くのも楽しいひとときでした。

石碑「名胡桃城址之碑」

さて、必死に手に入れた名胡桃城を足がかりに、昌幸は翌年沼田城を調略で落城させます。

沼田城には名胡桃城から車で15分ほどで到着。
沼田城といえば、ここを舞台とした小松姫のエピソードが有名です。関ケ原の戦いのとき、昌幸・幸村は西軍に、信幸は東軍にと敵味方に別れました。昌幸は、上田城へ引き返す途中、沼田城に立ち寄り「孫の顔がみたい」と城門を開けさせようとします。

すると、甲冑姿の小松姫が登場!武装した侍女達を率いています。
「いくらお父様でも、今は敵味方。主人が留守中に城を開けるわけにはいきませぬ」と、昌幸の申し出を拒否。昌幸は「さすが本多忠勝の娘!武家の妻はこうあるべきだ。」と褒め称えたといいます。

昌幸・幸村親子は、近くの正覚寺へ泊まったのですが、そこへ武装を解いた小松姫が孫を連れて訪ねてきました。城は開けられなくても「孫の顔がみたい」という昌幸のお願いにはしっかり応えたのです。夫と舅、両方の面目を立てる、よくできた妻です。

お城というより市民の憩いの公園で非常に広い

沼田城跡

沼田城跡は「沼田公園」という公園として整備されていました。公園部分は本丸跡と二の丸跡だそうで、野球グラウンドやテニスコートなどの施設含めると10万平米あります。その広さからも規模の大きさが伺えます。
沼田領が真田の所領になってから、信幸が沼田領2万7千石の領主となり、慶長年間には五層の天守閣を建造しました。関東で5層の天守を持つのは江戸城以外では沼田城だけだったそうですから、さぞ立派なお城だったことでしょう。
残念ながら、江戸幕府5代綱吉の時代、暴政などを理由に改易され、沼田藩は廃藩となります。幕府に領地を没収されお城は破却されたので、今は天守や建物などほとんど残っていません。
近年、発掘調査によって真田時代の石垣が発見されました。西櫓台の石垣と石段です。真田ファンにとっては当時を偲ばれる1番の見どころでしょう。

沼田城跡

沼田城のシンボル「鐘楼」

鐘楼

沼田城のシンボルはこちらの鐘楼です。信幸の息子・真田信吉が領内の安泰を祈願して、鋳造した鐘。かつてお城の中で鐘の音が響き、時を告げていたんでしょうね。
鐘楼自体は最近になって復元されたものですが、鐘は当時のものが残っています。現物の鐘は、沼田市中央公民館で公開されていますよ。

幻の天守閣

さて、5層の天守はどこにあったのでしょう? 縄張り図を見て確認すると、神社の鳥居のあたりのようです。
幕府に提出された絵図によると、天守は高さ8間(約14.4メートル)の石垣の上に建てられ、屋根は千鳥破風が多く、最上階には高欄がめぐっていたそうです。天守付近から金箔瓦もみつかっていて、どんなに立派な天守だったことでしょう。
残念ながら、昌幸が沼田に入城してから100年、真田氏が五代にわたり藩主を務めた沼田藩は改易となり、沼田城は消えました。
今は市民の憩いの公園となっている沼田公園、かつて、豪華絢爛な五層の天守がそびえ立ち、天を仰いでいたのです。

最終回は真田氏発祥の地、上田の旅です。

編集:トランス・タイム 細内律子

歴ドル 小日向えりの真田ゆかりの地をめぐる歴史旅
真田道 ~長野県上田市から群馬県沼田市~

第1回 群馬県東吾妻町 >>
第2回 群馬県沼田市・みなかみ町
最終回 長野県上田市 >>

 
本ページ内掲載の内容は2016年1月現在のものです。

  • トップ
  • 特集・キャンペーン
  • 歴ドル 小日向えりの真田ゆかりの地をめぐる歴史旅 真田道 ~長野県上田市から群馬県沼田市~ 第2回 群馬県沼田市・みなかみ町
ページトップへ戻る